新撰組ゆかりの地


新撰組幹部

局長・近藤 勇 副長・土方歳三
一番組・隊長沖田総司の写真は確証はないものの、ほぼ間違いないと言われている(写真提供:新撰組記念館)


沖田 総司
新撰組隊士

その総数は486名。一番から十番組まで編成された。


各組の隊長
一番組 沖田 総司

近藤勇・土方歳三とともに「天然理心流」の使い手で撃剣師範。副長助勤から一番組隊長として活躍するも、若くして肺炎で病死する。愛刀「菊一文字則宗」を持ち、三段突きを得意とする剣客。写真の出所ははっきりしないものの、沖田総司の姉「ミツ」の実在写真と非常に似ている。光縁寺にある墓の隣には「沖田総司縁者の墓」があり、想像をかき立てる。慶応四年(1868)、東京千駄ヶ谷の植木屋・平五郎宅の離れで死去、享年24歳。

沖田総司の得意剣法・三段突きは別名「死に技」で頭・喉・みぞおちを瞬時に突く早技。新撰組内では剣を寝せて突く「平突き」が一般的だった。


二番組 永倉 新八

松前藩士、神道無念流の剣客で三頭体制での副長助勤を務める。明治維新後も生存した。池田屋事変時は近藤隊で、近藤勇・藤堂平助・沖田総司とともに4名で最初に切り込みに入った。


三番組 斉藤 一

新撰組一の剣客。愛刀「鬼神丸国重」を持ち恐れられた。戊辰戦争時、近藤勇負傷後は新撰組隊長「山口次郎」として会津戦争を戦う。戦後名前を「藤田五郎」として明治新政府の警察官となる。又西南戦争時は九州へ出張、新政府軍の一員として立場逆転して薩摩軍と戦う。会津藩主松平容保より懇意とされ、生涯を会津とともにする。藤田家菩提寺は会津若松市の地にある。

会津藩は維新後、青森下北半島・斗南へ一時移動させられたが、斎藤も同行した。


肖像画    愛用の羽織 

西南戦争当時 晩年の斎藤一(藤田五郎)
四番組 松原 忠司
五番組 武田 観柳斎
六番組 井上 源三郎
七番組 谷 万十朗

八番組 藤堂 平助

武蔵国江戸出身。池田屋事変時、最初に切り込んだ。後に伊東甲子太郎とともに「御陵衛士」を結成し新撰組を離脱。油小路の変にて粛清される。

九番組 鈴木 三樹三郎

兄は伊東甲子太郎(いとうかしたろう)。御陵衛士粛清で兄を殺され(油小路の変)、新撰組への復讐に遁走する。維新後、警察官となり鶴岡警察署長として勤務。


十番組 原田 佐之助

種田流槍術免許皆伝・槍の使い手。伊予松山藩出身。

山南 敬助

副長・総長を務めた幹部。陸奥国仙台藩出身。心優しく温厚な性格で壬生界隈で評判が良かった。屯所移転に関し近藤・土方と対立、脱走した。その後、前川邸内にて切腹。

近藤四天王

新撰組の前身・江戸試衛館道場以来の生え抜き隊士で、剣術に優れ近藤勇の信頼厚い四人。
沖田総司、永倉新八、斉藤一、藤堂平助

維新後も生存した隊士達

永倉新八、斉藤 一、鈴木三樹三郎、島田 魁

新徳善寺

新撰組の前身は江戸・試衛館道場の浪士隊である。幕府の将軍上洛の護衛隊募集に「清川八郎」を筆頭とした浪士隊が組織され、その中に参加した。そして京都に入り、最初の宿舎となったのがこの「新徳善寺」場所は壬生寺の向かいにある。


現在の新徳善寺新徳善寺内部(古写真)
壬生の前川邸 中京区壬生賀陽御所町49
新撰組の最初の屯所となった。

前川邸遠景・入口前川邸内部は非公開

前川邸の古写真
旧前川邸・公式サイトはこちらを参照下さい。
壬生の八木邸 中京区壬生椰ノ宮町24

前川邸の向かいにあり、ここも最初の屯所となった。局長芹沢鴨はここで暗殺された。


八木邸入口八木邸の歴史

芹沢 鴨
八木邸・公式サイトはこちらを参照下さい。
会津本陣跡 左京区黒谷

会津藩の京都での本陣、「くろ谷」さんと呼ばれた金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)
ここで新撰組の御前試合も行われた。「新撰組」の名はここで会津藩より会津ゆかりの名として与えられた。
そして壬生浪士隊から「会津藩お預り・新撰組」となった。
当時守護職を預かるは、会津中将・松平容保(かたもり)。


金戒光明寺山門の「京都守護職本陣」

松平容保(かたもり)
壬生寺中京区坊城通仏光寺上ル壬生梛ノ宮町31

八木邸・前川邸の横にあり新撰組の軍事訓練に使われた。


壬生寺

寺内の近藤勇の胸像
京都所司代 中京区丸太町猪熊通下ル

所司代は京都見回り組と同じ京都守護職の下部組織。新撰組との関係も深く協力して京都治安の役目を担った。当時の所司代は松平定敬(さだあき)。定敬は守護職・松平容保(かたもり)の実弟で三重桑名藩主。桑名藩は戊辰戦争時、幕府軍の主力として戦った。


京都所司代跡遠景京都所司代跡の碑

松平定敬
池田屋事変 古高俊太郎邸跡 下京区西木屋町四条上ル

近江国出身の尊王攘夷派志士。桝屋喜右衛門と名乗り古道具・薪炭商を営み長州の間者として志士の援助をした。かねてからの新撰組の探索に捕縛された古高は、新撰組の拷問により尊攘派の京都襲撃計画を漏らす。これが池田屋事変の発端となった。現在は改修され料亭「しる幸」として営業されている。


古高俊太郎

古高邸跡(現・しる幸)しる幸店内に残る古高邸の一部
池田屋事変 祇園会所跡

八坂神社前のコンビニが祗園会所跡。新撰組が池田屋襲撃前に待機していた場所。会津・見廻組の援軍を待っていたが、遅れたため近藤隊(10名 木屋町沿いを探索)と土方隊(24名祗園町沿いから木屋町を探索)に分かれ探索に出発した。(この時点では集会場所が池田屋とは判明していなかった)


池田屋事変 池田屋跡 中京区三条通河原町東入

三条小橋横の池田屋跡。無名の新撰組を一躍有名にした事件。長州藩・土佐藩・肥後藩等の尊王攘夷派志士の集会を襲われた。この襲撃に痛手を受けた長州藩は禁門の変へと尊攘運動を過激化する。最初近藤隊10名に発見され襲撃されたが、少人数で新撰組は劣勢だった。その後土方隊24名が合流し、形勢逆転した。


三条小橋(古写真)  池田屋入口

池田屋内部(古写真)

現在の池田屋付近  所在地を示す路標

池田屋内部見取り図 池田屋事変顛末記
池田屋事変・殉難志士墓所跡

京阪三条駅・バスセンター横。墓所のあった三縁寺(現在は岩倉へ移設されている)の跡地に碑がある。殉難者はここへ長州藩ゆかりの「小川邸」の「てい女」により葬られた。


二番目の屯所跡・西本願寺「太鼓楼」

隊士が増え、手狭となった壬生からこの西本願寺へ移った。太鼓楼内部には当時の隊士達の落書きが残っている。


西本願寺西本願寺・太鼓楼
島原

新選組がよく利用した京都を代表する元遊郭で、建物がそのまま残っていて入場できる。壬生に近い処にあります。輪違屋(わちがいや)は置屋兼お茶屋さんで角屋(すみや)は揚屋(料亭・宴会場)さん。


島原大門島原・輪違屋

角屋

三番目の屯所跡(不動堂村)下京区東堀川通り塩小路下ル松明町

京都駅そば堀川通り七条「リ-ガロイヤルホテル」の地。ここにはかって新撰組の三番目の屯所があった。すぐ近くに油小路の変の現場がある。この後、鳥羽伏見の戦い時に屯所を「伏見奉行所」へ移す。その後、新撰組は戊辰戦争を江戸・会津・函館へと転戦する


リーガロイヤルHホテル入口前の新撰組の碑

不動堂村屯所跡の碑近藤勇の碑
東山・月真院 東山区高台寺下河原町528

伊東甲子太郎(かしたろう)率いる高台寺党「御陵衛士」が、新撰組からはなれ屯所を構えたところ。高台寺下・ねねの道沿いにある。


伊東甲子太郎

東山区ねねの道、高台寺下に碑がある。


月 真 院 月真院・御陵衛士屯所跡
油小路七条 下京区五条通坊城下ル

油小路の変
伊東甲子太郎、藤堂平助ら高台寺党が粛清された処。油小路七条の場所。


油小路の変現場

伊東甲子太郎殉難の碑
天満屋跡 下京区仏具屋町

天満屋事件
慶応3年11月15日、坂本龍馬が近江屋で暗殺されると「海援隊」隊士は犯人が紀州藩と思い込み「天満屋」で紀州藩の会合中を襲った。その時護衛で来ていた新選組・斉藤一が海援隊を返り討ちにしたところ。


天満屋跡

天満屋事件の碑
清和荘 伏見区深草越後屋敷8番地

近藤勇 襲撃地跡  
近藤勇が高台寺党の残党により襲撃されたところ。その負傷により以後の指揮権を斉藤一、土方歳三に委ねる。


近藤勇遭難の地、現在の伏見・清和荘

近藤勇・遭難の碑
光縁寺 下京区綾小路大宮西入四条大宮町37

沖田総司の墓がある光縁寺、前川邸の通り沿いで近くにある
光縁寺の沖田総司の墓の隣には「沖田総司縁者の墓」があり想像を掻き立てる。


司馬遼太郎原作「新撰組血風録」はTVで大ヒットした。

 

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