幕末歴史舞台の地

二 条 城
京都市中京区二条通堀川西入二条城町

世界遺産・二条城は1603年、徳川家康により造営され、三代家光が伏見城の遺構を移すなどして完成された。1611年(慶長16年)豊臣秀頼・家康との会見、1867年(慶応3年)四十藩の重役参集で行われた「大政奉還」の歴史的舞台となった。その舞台「二の丸御殿・大広間」には大政奉還の様子が人形により再現されている(撮影禁止


二条城

二の丸御殿

大広間への廊下

 

翠紅館跡(すいこうかん)
東山区桝屋町

東山「ねねの道」横の「維新の道」途中にある。幕末当時は西本願寺別邸だった。現在は京料理の「京大和」。ここで幕末維新のための尊王攘夷派の会議「翠紅館会議」が行われた。長州・桂小五郎、久坂玄瑞、土佐・武市半平太らが参加した。

 

 


桂 小五郎  久坂玄瑞

武市半平太

 

京都御苑(京都御所)蛤御門
京都市上京区烏丸通下長者町上ル

「禁門の変」での激戦地。このすぐ近くには、戊辰戦争での官軍総大将・有栖川の宮邸跡がある。 
有栖川の宮は公武合体で徳川家茂に嫁いだ皇女和宮の元婚約者であった。その有栖川の宮率いる官軍が、皇女和宮のいる徳川幕府・江戸城を攻撃すべく江戸へ進軍する。歴史の激動のなかでの皮肉な巡り合わせである。

 


有栖川の宮

 

錦の御旗
王政復古の大号令のもと、官軍の旗印となった。

 

伏見奉行所跡
京都市伏見区西奉行町1

新撰組の四番目の屯所にもなった。京都南交通の要衝の地にある。鳥羽伏見の戦いでは、会津藩主力1500と新撰組の幕府軍陣地となり、御香宮に陣を張る薩摩軍800人と対峙した。

 

鳥羽伏見の戦い 開戦地・小枝橋 
京都市伏見区中島秋山町

明治維新・戊辰戦争の開戦地。伏見城から京都へ向かう幕府軍は約15000で主力は桑名軍・会津藩、先頭は見回り組。官軍主力・薩長軍・彦根藩、大村藩は約5000。数では圧倒的に不利な官軍も新兵器アームストロング砲と新式ドライゼ銃が威力を発揮。旧式砲と火縄銃の幕府軍を破った。幕府軍は淀城・大阪城へと敗走した。

 

 

アームストロング砲とカノン砲 
佐賀市・佐賀神社

明治維新・倒幕派四藩(薩長土肥)の鍋島氏の肥前佐賀藩は、当時世界最新技術開発に優れていた。反射炉を開発、新型大砲を製造した。アームストロング砲は戊辰戦争時、幕府軍を圧倒した元込め式・新式砲。飛距離・精度に優れ上野彰義隊の戦いでも威力を発揮。現在、佐賀神社にて実射できる実機が展示され、年一回の行事で空砲発射される。

カノン砲はペルー来航後、幕府に納入されお台場に設置されたもの。


アームストロング砲

150ポンド・カノン砲

 

伏見の料亭 魚三楼(うおさぶろう)
京都市伏見区京町3

鳥羽伏見の激しい戦いで、伏見の町はほとんど焼失したが、この老舗料亭は難を免れた。いまでも当時の戦いの傷跡(弾痕)が格子に残っている。場所は京阪電車・伏見桃山駅そばの京街道沿い。

 

 

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