会津藩ゆかりの地


会津藩家紋旗 印
会津本陣跡 京都市左京区黒谷
会津藩の京都での本陣、「くろ谷」さんと呼ばれた金戒光明寺(こんかいこうみょうじ) ここで新撰組の御前試合も行われた。「新撰組」の名はここで会津藩より会津ゆかりの名として与えられた。 そして壬生浪士隊から「会津藩お預り・新撰組」となった。
当時守護職を預かるは、会津中将・松平容保(かたもり)。

金戒光明寺山門の「京都守護職本陣」

松平容保(かたもり)
京都守護職跡  上京区下立売通新町西入
金戒光明寺の会津本陣からここ・現京都府庁へ移設された。正面入口右にその碑がある

府庁正面入口横の碑京都守護職跡の碑
京都守護職正門跡 中京区堀川通二条城前
二条城前の京都国際ホテル裏の駐車場横に移設されている。当時の威容がそのまま残る。

 

京都御苑(京都御所)蛤御門 上京区烏丸通下長者町上ル
正式名「新在家御門(しんざいけごもん)」
「禁門の変(蛤御門の変)」での会津・薩摩・桑名連合軍と長州軍の激戦地。薩長同盟以前、当時幕末最大のミステリーといわれる「薩会同盟(薩摩・会津同盟)」により長州と薩摩は敵対し戦った。門には今でも当時の銃弾の痕が生々しく残る。

 


蛤 御 門 の 碑禁門(蛤御門)の変

 

新島八重(山本八重)ゆかりの地
大河ドラマ「八重の桜」で知られる山本八重。会津戦争時・会津藩鉄砲隊として若松城篭城戦に活躍した。維新後、兄・山本覚馬を頼り上京(京都)する。その後「新島襄」と結婚。
山本覚馬は会津藩砲術指南役で、禁門の変では砲兵隊を率い活躍。眼を患ったがその優秀な資質を明治新政府に認められる。そして京都府庁顧問に就任、京都府発展の基礎を創った。新島襄の同志社英学校設立の協力者でもあった。

山本八重と山本覚馬
新島襄
同志社英学校(現在の同志社大学)創始者

新島襄旧邸 上京区寺町通丸太町上ル松蔭町(御苑・寺町御門そば)
八重は京都で同志社創立者・新島襄と出会い結婚、新島八重となる。
旧邸は内装を当時のまま保存され公開されている。夫婦の墓は東山・同志社墓地に並んで建っている

 


応接室書斎

 

女紅場(にょこうば)跡 土手町通丸太町下ル(丸太町橋西詰)
京都府立第一高女の前身で縫製手芸茶道などをを教える女子教育機関。新島八重はここで茶道教授として勤務した。

 

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